前回に引き続き、危機的状況で結果を出したサッカーチームの事例をお届けします。

1回目(前回)は、1998年に消滅したJリーグ横浜フリューゲルスの天皇杯優勝の軌跡をたどりながら、その要因を探りました。

2回目の後編では、2011年東日本大震災で大打撃を受けたJリーグベガルタ仙台の大躍進について考えていきたいと思います。

▽前回の記事はこちら▽
危機的状況を乗り越えられるチームとは?【前編】

ベガルタ仙台はいかにしてクラブ史上最高位に突き進んだのか

2011年3月11日14時46分、東北地方を中心とした東日本に大震災が襲いかかりました。その揺れの強さ、長さに恐怖心を抱いた私は「きっとここ(関東)が震源なんだろう」と思っていましたが、報道で東北の太平洋沖が震源と知り、さらに驚いたことを記憶しています。

そして、時間の経過とともに断片的だった情報がつながり、被害の全体像が明らかになっていき、その甚大さに言葉を失いました。テレビで見た津波の光景は、今でも脳裏に焼き付いて離れませんし、被害に合われた方々のことを思うと言葉になりません。

東北最大の都市、宮城県仙台市を拠点とするサッカーJ1のベガルタ仙台は、被災した2011シーズン、クラブ史上最高位の4位に大躍進を果たしました。翌2012シーズンは、優勝にあと一歩の2位となり、アジアチャンピオンズリーグの出場権を獲得するに至りました。

当時のベガルタ仙台は長い間J2での戦いを強いられていたクラブで、J1昇格を果たした2010シーズンは残留が精いっぱいの成績でした。そんな苦しい台所事情で未曽有の大震災が襲い掛かり、練習場、クラブハウス、スタジアムも被害を受け、得点源と目されていた新外国人選手も退団などが重なりました。

ダメージしかなかったチームは、いったいどのようにしてこの危機的状況を乗り越え、クラブ史上最高位へと突き進んだのでしょうか。

チームを優先しリーダーシップを発揮

2011シーズン第2節となるホーム開幕戦を翌日に控えたチームは、午前練習を終えて選手は既に帰宅、監督・コーチはクラブハウスにいました。そんなタイミングで3月11日14時46分、大震災が襲ってきたのです。

仙台にいなかった私たちでも、その揺れや被害の大きさはメディアを通して察しがつきます。当然クラブハウスも大ダメージを受けたわけですが、当時の手倉森監督(現日本代表コーチ)は「ここ(クラブハウス)はみんなが帰ってきてくれる場所」という信念を持ち、自らは自宅に戻らずクラブハウスに居続けました。

次第に電話も繋がるようになった時、選手から「監督はどこにいますか」と連絡が入っても、「クラブハウスにいるよ」と答えることで、集合をかけなくても選手が集まったといいます。有事の際、リーダーが自らの安全を最優先にしたら、チームはバラバラになっていたと思いませんか。

しかし、そんなときもメンバーが戻って来られるようチーム優先の姿勢を貫いたことが、逆にチームの結束を強めることになったはずです。簡単なことではありませんが、チーム優先の初動対応が、その後の物語のスタートとなりました。

地域愛や人間的成長を生むためのリーダーの決断

サッカー選手である前に、みな1人の人間です。震災によって人としてのメンタリティがボロボロになっているとき「プロなんだからサッカー以外のことを考えるな」と言っても無理な話です。自らや家族の安全が担保されていない状況では、何も手につくはずがありません。監督はこのとき、「本当に辛かったら帰してやるから」と声をかけ、人としてのメンタリティを優先させました。その安心感は大きかったと思います。

一方で、相反するような選択もしました。震災後、関東などから練習場を提供するという申し出があった中、地元仙台に残るという決断をしたのです。精神面を早く回復させたければ、悲惨な現場を見ない、見せないという選択もできたはずですが、監督はあえて選手とともに現場に向かい、ボランティアをすることを選びました。

これまで地元(サポーターやスポンサー企業)に支えられてきた立場として、ダメージを負った地元を胸に刻むことが地域愛や人間的な成長につながると考えたのです。サッカー監督でありながら教育者のような価値観を持ち、「人としての成長があってこそチームの成長がある」と確信しているリーダーの選択だったと言えるでしょう。

また、地元が苦しんでいるときにチームが安全なところでトレーニングをし、結果的に優勝できたとしても地域を勇気づけることはできないし、逆に俺たちが苦しんでいるときに応援もしてもらえない、と言い、チームは常に地域と一体であろうとしていたことが伺えます。