唐池氏「手間がここまでかかっているのかと思える料理は味が多少自分の好みと違っても、受け入れてもらえる。」

糸井氏:
では、メディアが何に支えられているかというと、先ほどから唐池さんが「気」と表現したものです。
例えば鉄道は線路を引くのも、石を積み上げるのも1つ1つが労働集約型であり、とても手間がかかります。

「これは人間がやらなくてもいいんじゃないか」「機械に任せてもっとクリエイティブなことを人間はすればいいんじゃないか」という方もいるでしょう。
ですが、無駄なことを省こうとしている時代でも、手をかけたところに人が集まってくるんです。サービスを享受する側だけじゃなくて、「ぜひ働きたい」というスタッフもです。

以前、東北の復興のお手伝いを行っていた時に、手編みのニットの会社を立ち上げました。
手編みのセーターと同じものは機械で作れるし、似せて作ることも可能です。

でも、50時間かけてセーターを編みたいという方がいて、手編みだからと15万円くらい出して買ってくれる人がいました。これは、効率や機械に任せにすればいいという感覚とは真逆のものです。ここに、人が何を求めているのかが隆起してきたような気がするんですね。

唐池氏:
飲食を例に取ると、お客様がレストランに求めているものは、自分が普段作れない「手間のかかっている料理」なんです。
おそらく女性の中で、レトルトで作られるカレーショップには行く方はいないでしょう。
ですが、同じカレーでもトッピングが選べるところには行きますし、さらに自分が普段作れない手間のかかったカレー屋さんには行くと思うんです。

実際、ななつ星でも、手間のかかった料理を出せる料理人かどうかを料理選びの基準として採用しています。これは、美味しいとかまずいを超えてるんですよ。

「手間がここまでかかっているのか」と思える料理は味が多少自分の好みと違っても、受け入れてもらえる。
そういえば、糸井さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」も手間がかかってますよね。

糸井氏:
ほぼ日は大変な労働集約型なんですよ。
「大変なだけ人はよろこぶ」という考え方がどこかにあって、ブラック産業にならないようにどこでどう切り分けるかは迷っています。例えば働くことの中には楽しみでやってることが混ざってくるので。

迷いはありますけど、1つ大きな軸となる考え方があって、それは*「機械でできることを人がやることで喜ぶ」*ということです。

人類が50万年あったとしても、ここまで便利な社会になったのは1,000年ありません。300年もないかもしれない。この変化を人体や感情は理解できていないんです。

それまでの49万年以上を過ごしてきた人間をどういう風に満足させるのかというのに、僕らの仕事や喜びの鍵があるんじゃないかと思いますね。

まとめ

「メディアを作る」というと、新聞や雑誌、Webメディアのような存在を思い浮かべるかもしれません。
ですが、本来メディア(media)とは「媒体」を指す言葉です。情報と情報、人間と人間をつなぐ存在もメディアとなります。
「ななつ星」も「生活のたのしみ展」も、人やものをつなぐメディアとして機能してきました。乗客が集まるダイニングカーやモンベルの出店など、その媒体だからできるつなぎ方をしてきたのがこの2つのメディアの共通点でしょう。

このようなメディアを作り出すには、糸井氏の言う「手間をかけること」が鍵となりそうです。